昭和五十六年九月二十一日 朝の御理解
御理解 第五節 「これまで、神がものを言うて聞かせることはあるまい。どこへ参         っても、片便で願い捨てであろうが。それでも、一心を立てれば         わが心に神がござるから、おかげになるのじゃ。生きた神を信心         せよ。天も地も昔から死んだことなし。此方が祈るところは、天         地金乃神様と一心なり。」
 おかげを受ける事と御神徳を受けるという事をはっきりと区別というか示しておられる御教えだと思います。おかげならば必ず金光様じゃなくてもいいと。わが心に神がござるから、一心を立つればおかげが受けられる。
 石の祠でもいい。柱一本を目当てに拝んでもいい。一心を立てれば、いわばおかげが受けられるという、ね。けれどもここでは、神がものいうて聞かすという事。
 いわゆる教えを頂くという事はその全てが私は、お徳を受けるお話しだと思うです いわゆる教祖様が最後におっしゃっておられます。此方が祈る所、天地金乃神と一心なりとおっしゃる。ここで言われる天地人一如の世界。天と地と人間とがこう一体になって行けれる手立てを合楽理念は説くのです。
 ですから、合楽理念こそは神への精進の手がかりでもありぁ、教えでもあるという事を先ずは皆さんがわからなけりぁいけません。そして、本気で合楽理念に基づく生き方をね、身につけていこうと、そして、ははあこういう事が天地人一如という事であろうかと、天の心にならせて頂く精進であり、地の心にならせて頂く精進であり、その天地の働きそのものを、有り難し勿体なしで受けていこうとこういう、いわゆる成り行きを尊ぶ大切にするね。
 天の心とは限りない美しい無条件の美しい心を自分の心ん中に頂いていこうとする精進。地の心とは、いよいよ黙って治める土の心である。
 そういう、精進を本気でなされる時にその天地と同質の事になってくる。それは天地が大海の水であるならば、私共もそれは一滴の水かもしれませんけれども、それが大海に打ち出した時には、もうすでに大海の水であるように、私共のいうならば、信心がね、そういう天地と溶け合っていく生き方が、人間生活に人間らしい生き方をしながらね、いよいよ精進を重ねていこうというのが、合楽理念であり、だから結局、合楽理念とは御神徳を受ける事だと。ここではいうなら、神がもの言うて聞かすところ、今までは片便の願い捨てであった。只、一心を立てて拝んでいれば、その拝んでそれは我が心、神がござるから一心を立つればおかげになるのであって、御神徳を受けていくという事、此方が祈るところに天地金乃神と一心とおっしゃる。その一心の信心を私共が生活の上に天地と一つの心になれれる手立てが、私は合楽理念だと思いますから皆さんは、いうならば、期せずして例えば、皆が生神になろう等とははじめから思った事はないでしょうけれども、期せずして生神への道を皆さんは辿っておられる事になるのです、ね。
 昨日は日曜でしたから特別奉修委員の方達の朝の御祈念がございました。正奉仕を梶原先生が担当しておりました。御祈念が終わって皆さんにお話しを聞いて頂いとりましたそのお話しの中に、私は合楽の生神様とか親神様とか人が言うけれども、親先生はやっぱり人間だと。私は修行に入る時はそう思うて入りました。だから、人間大坪という人がなしておる事は自分達にもでける事なんだというふうに、まあ感じておりましたが、だんだん修行をさして頂いていく中に、親先生は違うと思いだしました やっぱり親先生は神様じゃなあと思うようになりましたという話しをしていました 昨日吉井の波多野さんがああして、毎日参拝されましてから、先日バスで帰ろうとしとりましたらある、ここにお参りした青年がおばしゃま送ってあげましょうというそれから車にまあ、便乗さして頂いたら、その青年の方が言われるのに、それこそ梶原先生がはじめ思ってように、な、意味でしょう。
 皆が神様、神様て言いなさるばってん親先生はやっぱ人間ですよち。私はそこんところをいっぺんそりこそ、親先生と差しで誰れんおらん時にじっくりお話しをしたり聞いたりしたいと思いますという話しを車ん中でしていったという話しを昨日ここでお届けされるんです。
 期せずしてその梶原先生が話しておった事と、まあ、波多野さんのそのお届けとが一致するんです。私が神様とも思わないし生神様とも思わないのだけれども、皆が金光様とか親神様とか言われる。もう、どっちかというと私は大変迷惑するんです。
 電話なんかでも「生神様ですか」ち言うたり、「親神様ですか」ち、はいはいちいうわけにゃいかんけん「はい、大坪です」とこういうわけですけれども、ね。
 その事を私は、神様に御祈念さして頂いとりましたら『大きな熨斗』を頂くんです こんな熨斗がありますね。書いたような熨斗が、普通の熨斗のこうじぁなくて、そして中が帯がしてあるでしょう。きっちとこう帯をしてある。ほほう、お道の信心でいう生神。お道の信心でいう教祖がおっしゃる、此方が祈る所天地金乃神と一心という程しのものというのは、ね、私は、全身全霊を天地に捧げた人の姿をいうのだという事を感じました。
 私にもし家蔵財産があるならば、これ一切神様の御物だとして頂いておる。
 勿論、全身全霊を神様へ捧げておる姿、捧げておる。そこに天地と一つになられるなる世界があるんだと。してみると私はだんだんそこん中に入っていっておるなあと思うんです。第一私は、ここの財産は自分の物と全然思うてませんから。もう、神様が要るとおっしゃるならばいつでも、それこそ熨斗つけておりますから、ね。
 勿論、全身も全霊もいうなら、御神意のまにまにこうやって御用させて頂いとるのですから、ははあ、こういう現在の信心がいよいよあか抜けしていく、精進していくという事がね、生神への精進だというふうに思いました。
 そこで私は今朝からその事を思い出しましたから、まあそういう、難しい事をいわんでも簡単にわかるような、皆に信者にもわかるような手立てというたらね、生神へなる精進というたらどういう事でしょうかとお伺いさせて頂いたら、『蚊取り線香がこう火がついて煙がこう上がって、そして蚊が落ちておるような様子』を頂いたんです、ね。私しゃ全身全霊親先生任せでございますというても、信心の帯がきちっと帯が途中でしめられておらねば、捧げておるという事は言えません、ね。
 ですから、結局まあ、合楽で日頃頂く教えをまあ、簡単に言うと、本気で馬鹿と阿呆になる事だと。それは自分の都合のよい事、悪い事にです、まあここでは、私が馬鹿になっときぁええと、分の悪い時にそういう、いうならば言う人がありますけれども、それとは反対にこんなおかげを頂いてもよかろうかといったような時でも、馬鹿と阿呆でいく事です。その内容は、だから成り行きを尊ぶとか,土の心という事になってくるでしょう。
 だから合楽の信心はどんな場合でも、利口者にならんと思う事です。言い訳せん事です、ね。蚊取り線香になる事です。それでいて神様へ向けるその心というものはそれこそ熱うとこうね。こう線香でもちょっと手にあたりぁ熱うとこういう熱つうというようなものがなからなきゃいけない。いわゆる朝参り的信心です、ね。それが足ろうてその稽古がでけていくという事がいわば、教祖様がおっしゃる、此方が祈る所天地金乃神と一心と言うような信心のいわゆる、天地の中に溶け込んでいけれる生活がでけていくようになる。
 そりあまあ、神様になったら窮屈なこつじゃあろうというようなものじゃなくて、人間が人間らしゅう生きながらね、食べもすりゃ飲みもする、そういうあり方の中からね、いうならば、馬鹿と阿呆になる本気での稽古を繰り返していく事だと言う事になります、ね。同時になら、私がそう頂きました捧げる生活です、ね。皆さんが日々お賽銭をお日初穂を奉っておられるのはあれは捧げておられるのです。
 御用をするという事も捧げておるのです、ね。こりゃ家業の上にだってその内容がいる事は勿論です。ね、いうなら、捧げる生活、奉仕の生活、しかもそれにいうならばね、帯がきちっとこう熨斗の真中にぁ帯がしてあるようにこの信心、しっかり信心の帯をせよと仰せられる。帯がでけていかなければならんという事でございます、ね お道の信者、信奉者皆生神を目指すという事が言われるけれども、それをなら、具体的に説き、具体的に誰でもでけるような手立てを説いてあるのは、合楽理念だけだと思います、ね。だからそういう、いわば大変な尊い教えなのです。合楽理念で説かれている教えは。いうなら神がもの言うて聞かした事はあるまいがと過去の宗教においては、それを合楽理念では神様から頂いた事を皆さんに伝えるのですから、神様の代弁として私が皆さんに話しを聞いて頂いとるのですから、神様のお言葉として頂いてそれを実行して、実験さして頂く。実証していくところに喜びも安心も頂けれる。 そして自分もそれこそ、期せずしていつの間にか生神へ向かっておる自分に気付かせて頂いて、それこそ天地が自由になるという程しのおかげにもお徳にもなってくるという事でございます。
      どうぞ。